渋谷の喧騒を離れ、230年前にワープ! 盲目の学者が未来へ託した17,244枚の版木

未来をのぞける博物館シリーズの第14弾。今回は、東京都渋谷区にある「塙保己一史料館」を紹介します。

有名なスクランブル交差点など多くの人が行き交う東京の渋谷。その駅前から離れた閑静な場所に、塙保己一(はなわほきいち)史料館という施設がひっそりと佇んでいます。

建物は昭和2年に竣工した、周囲と一風変わったコンクリート造りの建物となっている当館。その館内には、外観からは想像もできない光景が広がっているのです。

数々の奇跡を乗り越えた版木

凄まじい版木の数に、圧倒される

館内の保管室をのぞくと、そこには江戸時代に作られた膨大な数の版木が収蔵され、思わず息をのむような、どこか神秘的な光景が広がっています。その数は実に17,244枚。棚という棚に、ただひたすら版木だけが並び続ける様子は、他ではなかなか目にすることのない異様さすら感じさせます。

では、この版木はいったい何なのか。それは塙保己一という人物が、「世のため、後のため」を願い、未来へ託した極めて貴重な文化遺産なのです。

盲目でありながらも偉業を成し遂げた塙保己一

塙保己一とは、江戸時代の延享3(1746)年、埼玉県本庄市にて生を受けた人物。幼少期に病を患い、7歳で失明してしまいますが、彼には驚くほど記憶力が高い才能がありました。一度本を読んでもらえば、その文章を一字一句すべて覚えてしまうのです。

15歳で江戸へ出た保己一は、学問の世界に身を投じます。そこで彼は、古くから伝わる日本の歴史書や文学書が、あちこちに散らばって失われたり、火災で焼失したりして、どんどん失われていくことを目の当たりにすることに。そこで保己一は、後の研究に役に立つ書物を後世に残す活動を始めます。

その方法としては、まだ活版印刷が普及していない時代ということもあり、韓国や中国で取り入れられていた版木を用いることにしました。文献調査のために様々な場所を訪れては、門人に読み上げてもらった文章はすべて記憶。そうして頭の中に刻み込んだ文章は、読み上げると同時に彫り師によって版木に彫られていったのです。

40年に及ぶ一大事業ではあったものの、17,244枚にも及ぶ版木を和紙に摺り続け、666冊もの書籍にまとめた『群書類従(ぐんしょるいじゅう)』が誕生しました。

数々の災害と奇跡を乗り越えた版木

交互に重なる形で、棚に収められている

しかし保己一の没後、膨大な数に及ぶ版木は、明治時代に入ると個人での保管が困難となり、明治政府へ献納されました。しかし、関東大震災では、版木を収蔵していたレンガ造りの倉庫が倒壊。そこで、文化財を安全に守るためには、より堅牢な保存施設が必要であることが痛感され、同じ埼玉県出身の渋沢栄一の協力のもと、温故学会の会館として史料館の建物が建設されました。

東京は、1923年の関東大震災や1945年の東京大空襲など、幾度となく大きな災害に見舞われてきました。それにもかかわらず、江戸時代からおよそ230年が経過した現在でも、17,244枚の版木が一枚も欠けることなく、一階と二階の収蔵庫に残されているのは、まさに奇跡といえるでしょう。

中には劣化した痛々しい版木も見られる

これらの版木は、硬く丈夫で、さらに耐水性にも優れた国産のヤマザクラ材を用いて作られています。ほとんどの版木は、保存状態が良好であり、うっすら振られている数字においても、かすれることなく書かれている様子も伺えます。

後世のために完成させた『群書類従』

逆さに彫られていることにも驚かされる

これらの版木には、保己一が読み上げた文章をもとに、彫り師が刻んだ文字がそのまま残されています。一字一字が実に端正で、熟練した職人の手によって、丁寧に彫り進められた様子がはっきりと伝わってきます。

この版木は、文字数を容易に把握できるようにと「1枚(1ページ)につき、20行、1行20文字(合計400文字)」で彫られています。この版木の規格は、「日本語を書き記す標準」として引き継がれ、現代の原稿用紙の形として定着したとも言われています。

この17,244枚が230年もの昔に彫られ、それが今もこうして現存していることに、版木の表面を見るたびに感慨深く思えます。

そのままでは読むことは難しい

これらの版木を666冊の本にまとめた『群書類従』が出版されています。では、この『群書類従』が存在することで、私たちはどのような恩恵を受けているのでしょうか。

その恩恵は、日常生活の中で直接意識することは少ないかもしれません。しかし、災害や火災によってすでに失われてしまった史料の内容を知る手がかりを与えてくれる点において、学術的に非常に大きな価値を持っています。

たとえば教科書です。明治初期、日本では近代教育のために教科書の整備が急務となりましたが、その際、政府や学者たちが最も重要な基礎資料として頼ったのが『群書類従』でした。また、地域史や社寺史の研究においても、『群書類従』に収録されていたことで初めて記述可能となった事例が数多くあります。

『群書類従』がなければ、永遠に失われていた史料も少なくありません。保己一が残したこの仕事は、日本文化を後世に伝えるための確かなバックアップが構築されたといえるのです。

ヘレン・ケラーも尊敬していた

来日の際は、真っ先に当館を訪問したかったそうです

そして、当館には貴重な一枚の写真が残されています。そこに写っているのは、当館を訪れたヘレン・ケラーです。

「見えない」「聞こえない」「話せない」という三重苦だった彼女は、母親から保己一の存在を聞かされました。盲目ながら偉業を成し遂げたという保己一の存在は彼女の生きる気力を後押ししてくれ、昭和12年の初来日の際はこの史料館へも足を運びました。

1階のロビーに展示されています

そして、彼女は涙を流しながら当館所蔵の像に触れたそうです。今も、その写真と合わせて像が展示されていますので、訪問する機会があった際には、こちらも併せて見ていただければと思います。

渋沢栄一も大きく関わっていた

今の建物には見られない、どこか特徴的な階段

ご希望があれば二階まで上がっていただくことも可能です。昭和2年の建築であるためエレベーターは設置されておらず、階段でのご案内となりますが、その階段には昭和初期の建物ならではの趣深い特徴が見られます。

なぜ、このようなデザインになったのでしょうか

渦を巻くような形をした手すりは、柵の部分がねじれた意匠となっており、どこか洗練された印象を与えます。和洋折衷の建築が広まり始めた時代の建物であるため、随所にほのかな洋風の趣を感じ取ることができます。

畳のほのかな香りがたまらない

二階に上がると、畳が敷かれた講堂が姿を現します。ここでは落語会などのイベントとして使われているようですが、若者の多い渋谷とは思えない、一気にどこか懐かしい雰囲気の場所へとワープしたかのような錯覚を覚えます。

背景には、今と変わらぬ床の間が写っている

この二階の和室には、温故学会の開会式を記念した写真が残されています。そこには、一万円札の肖像としても知られ、数多くの企業の設立に関わった実業家・渋沢栄一の姿も写っています。

塙保己一が埼玉県本庄市の出身であるのに対し、渋沢栄一の故郷は埼玉県深谷市でした。公益のために生涯を捧げた姿勢、そして同じ郷土に生まれた人物であるという縁から、塙保己一の偉業を後世に伝えるため、最も尽力した人物の一人が渋沢栄一でした。

塙保己一の功績を顕彰する目的で温故学会が設立され、関東大震災後には、版木をより安全に保存する必要性が高まります。その結果、耐火性に優れた、多摩川の砂利を用いたコンクリート造の建物が建てられました。

あまり世には知られていないかもしれませんが、後世のことを、未来のことを考えて版木を残した塙保己一。当館を訪れ、これらの版木を目にすることで、その生き方に思いを巡らせながら、自身の未来について考えるきっかけを得られるかもしれません。

博物館に行ってみよう!

塙保己一史料館
住所:〒150-0011 東京都渋谷区東2-9-1
営業時間:平日(月~金)午前9時~午後5時まで ※土・日・祝日については問合せください
休館日:開館日カレンダーをご覧ください。
入館料:大人 100円/小、中学生まで無料
公式HP:http://onkogakkai.com/

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丹治 俊樹

丹治 俊樹

博物館ライター

博物館マニアであり、「知の冒険」主宰者。本業であるフリーエンジニアのかたわら、博物館ライターとして、珍スポ/遊郭跡/博物館/昭和レトロなど2000スポット以上を取材。テレビ、ラジオ、雑誌などのメディアに出演するほか、書籍の出版、講演会の開催なども行う。二郎全店制覇。著書に『世にも奇妙な博物館 〜未知と出会う55スポット』などがある。 ブログ「知の冒険」:https://chinobouken.com/

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