Z世代視点の街の未来 ― 日光「大谷資料館」から考えられることとは?

栃木県宇都宮市にある「大谷資料館」。

巨大な採石場跡をそのまま展示空間とした場所で、訪れた者は地下に広がる非日常的なスケールに圧倒される。私が心を奪われたのは、出口付近に掲げられていた「石の華」という説明板だった。

冬の乾いた空気の中で、大谷石に含まれる塩分が結晶化し、白い華のように壁面に広がる。湿度が高まる夏になると、それはすっと姿を消す。ほんの短い時間しか現れない現象に、人は「石の華」という名前を与えた。

Z世代としてこの言葉に触れたとき、私はそこに「一瞬を価値化する感性」を見た。私たちはストーリーが数秒で流れていくSNSの世界で育ち、儚いものに美を見出す世代だ。街の変化もまた「ストーリー」として体験している。繁栄から衰退へ、静寂から再生へ。その揺らぎは、過去の世代が積み重ねてきた「歴史」ではなく、いま私たちがスクロールしながらリアルタイムに目撃する「問い」そのものなのかもしれない。

大谷資料館の入り口から階段を降り、坑道を進む。ひんやりとした暗闇に包まれた先、突如として目の前が開ける。そこには、切り出された巨大な空洞に差し込む自然光があった。その光景は、まるで宗教的な儀式の場に迷い込んだような、荘厳な気配を帯びていた。

外から見れば、そこは「産業の跡地」「過去の廃墟」と片づけられてしまうかもしれない。だが光が差すことで、その空間は「再演出」される。

Z世代にとって、この「光の再演出」は親密な感覚だ。私たちはアプリのフィルターやARのエフェクトを通して、現実を加工し、意味を更新し続けてきた。もちろん、BeReal などの「今」を出すアプリも多々登場している。空き地や古い建物もまた、見方を変えれば「廃墟」ではなく「次のステージ」になる。未来の街は、ゼロから作り直す必要なんてない。ちょっとした光の当て方、解釈の変化によって、眠っていた場所が新しい価値を帯びる。その可能性を誰よりも信じやすいのが、既存のルールにまだ縛られきっていない世代なのかもしれない。

資料館の一角には、赤い棒が四方に突き出すインスタレーションが展示されていた。光に照らされるその姿は、都市の奥底に溜まっていたエネルギーや欲望を可視化したように見えた。

対照的に、別の場所には錆びついた鉄柵が取り残されていた。かつて石の採掘を支えた産業の残骸は、今では機能を失い、静かに朽ち果てている。

Z世代としてこの風景を見ると、そこには「過去のレガシー」と「未消化の衝動」が並んでいるように感じられる。私たちは常に、古い構造や社会の仕組みの上で生きている。バブル経済の残り香、昭和の町並み、平成のサブカル。けれどそこにとどまるだけではなく、次の時代のエネルギーをどう受け止め、どうリミックスするかが問われている。

街の未来は、単に新しいビルを建てることではない。過去の残骸を「ノイズ」として消すのか、「サンプル」として活かすのか。その選択が、次の世代の都市文化を形づくっていくのだ。

外に出て見上げた大谷の岩肌は、自然と人間が削り取った痕跡が重なり合う巨大なキャンバスのようだった。空を背景に立ち上がる岩の断面には、街の歴史が地層のように積み重なり、過去と現在が同時に刻まれている。その姿を見ながら、私は「街の空洞」と「学生の居場所」を重ねて考えていた。

学生の立場から街を歩くと、しばしば「空洞」を感じる。商店街のシャッター、空き家、夜には人がいなくなる公園。若者が自由に集まれる場所は限られ、その不在は「衰退」として語られることが多い。だが私たちZ世代にとっては、それは「未使用の余白」であり、むしろ新しい活動が芽吹く余地として映る。SNSでハッシュタグを組み合わせて遊ぶように、街の空洞を「実験の場」としてリミックスする感覚があるのだ。

大谷資料館の地下空間もまた、一度は役目を終えた空洞だった。しかし今はコンサートや展示会、映画やドラマのロケ地として、多様な文化的利用に生まれ変わっている。その姿に私たちは学ぶべきだろう。街に潜む「余白」は衰退の象徴ではなく、再編集されることを待っているキャンバスなのだ。

資料館の奥に進むと、赤や青のライトで照らされた巨大な石壁に出会った。ただの採掘跡が、一瞬で舞台の背景に変わる。光と色は、人の感覚を根底から揺さぶり、現実の意味を塗り替える力を持っている。

この体験は、Z世代にとってあまりに自然な発想を呼び起こした。現実の街並みもまた「照らし直せばいい」。廃校をアートスペースに、使われない道路をイベント会場に、空き地をコミュニティガーデンに。ゼロから作り直すのではなく、リソースを再編集することで街は未来の姿を手に入れる。

私たちZ世代は、SNSのフィルターやセルフブランディングを通じて、日常的に自分自身を「再演出」してきた世代だ。写真にエフェクトをかけ、動画にBGMを加え、プロフィールを編集し直す。その連続の中で育った感覚は、街に対しても応用できる。「街をどう見せるか」「どう演出するか」を問い直すのは、私たちにとって直感的な営みなのだ。

Z世代が未来を描く意味

Z世代は、街にとって「当事者」でありながらも「異物」でもある。既存のルールに従うことに違和感を覚え、空洞に可能性を見つけ、SNSの感覚で価値をシェアする。そんな距離感があるからこそ、街の未来を柔軟に想像できる。

大人たちは街を「維持する」視点で語る。けれど私たちは街を「遊び直す」「編集する」存在だ。大谷資料館で出会った問いかけは、それを象徴していた。

「街はどう変わり続けるのか?」

「暗闇に差す光をどう扱うのか?」

「衝動や残骸をどうリミックスするのか?」

街の未来は、完成された答えではなく、問いの連続だ。

そして私たちZ世代の役割は、その問いを見逃さず拾い上げ、実験しながら街に投げ返すことなのだ。

あなたの街にも、まだ眠っている「空洞」があるはずだ。その余白をどう再演出するかは、私たちの感性にかかっている。大谷の「石の華」のように、街はまた、儚さの中から新しい美しさを立ち上げていくのだ。大谷資料館を歩きながら、私は何度も「問い」の存在を意識した。石の華は「街はどのように変わり続けるのか?」という問いを。地下の光は「暗闇に差し込む希望をどう生かすのか?」という問いを。赤いインスタレーションは「街の衝動をどう受け止めるのか?」という問いを。街の未来は、完成された答えではなく、絶えず立ち現れる問いの連なりなのだろう。そして学生である私たちの役割は、その問いを見逃さずに拾い上げ、街に投げ返すことなのだと思う。あなたの住む街にも、きっとまだ使われていない「空洞」があるはずだ。その空洞は未来にどう花開くだろうか?大谷の石の華のように、環境と人の営みの交差点で、街はまた新しい姿を見せてくれるだろう。

Reo Fujita

Reo Fujita

VISIONGRAPH Inc. Project Assistant

武蔵野美術大学 造形構想学部 クリエイティブイノベーション学科  高校卒業後、視覚芸術学や哲学、天文学、文化人類学などの一般教養をアメリカで学ぶ。学位取得後、武蔵野美術大学へ広義のデザインを研究しに編入。現在はスペキュラティブデザイン、未来洞察、シナリオプランニングなどを研究中。

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