導入 ― 万博とZ世代の私
「未来」と聞いたときに、あなたはどんなイメージを思い浮かべるだろうか。ロボットが街を歩き、空を飛ぶ車が行き交い、人々がテクノロジーに包まれて暮らす姿を想像する人もいれば、環境と共生する穏やかな暮らしを夢見る人もいるだろう。
私たちZ世代にとって「未来」は、もはや遠い空想ではない。SNSを開けばAIが生成した無数のイメージが流れ込み、環境問題や戦争のニュースがタイムラインを覆い、テクノロジーの進化と不安が日常に入り込んでいる。未来は、私たちにとって“展示されるもの”ではなく、“常にアップデートされ続ける問い”そのものなのだ。
そんな視点を胸に、私は大阪・関西万博の会場に足を踏み入れた。迎えてくれたのは、どこか不気味で、それでいて親しみやすい青と赤のキャラクター「ミャクミャク」だった。大きな目がいくつも並ぶその姿は、未来を監視する存在のようでもあり、無邪気にこちらへ笑いかける子どものようでもあった。思わず「これが私たちの未来のシンボルなのか?」と考えてしまう。奇妙さとかわいさが混じり合うそのバランスは、まさにZ世代の感性に近い。私たちは違和感や不気味さを拒絶するのではなく、むしろその中にユーモアや希望を見出そうとする世代だからだ。
第1章 建築から感じた未来 ― 木のフレームがつくる仮設都市
会場に足を進めると、まず目に飛び込んできたのは巨大な木組みの建築だった。規則正しく並んだ梁と柱は、都市というよりも「木の森」を歩いているような錯覚を与える。光が差し込むたびに影が格子状に地面を走り、人々の動きと交差していく。
この光景を前にして、私は「未来の都市は、完成されたコンクリートの箱ではなく、持続可能な“仮設都市”なのではないか」と考えた。木材という素材の温かさ、そして組み替え可能なフレーム構造は、恒久的に建てられるものとは違う柔軟性を感じさせる。
私たちZ世代は、固定されたものよりも流動的なものに親近感を覚える。SNSのプロフィールを日々更新し、トレンドが次々と入れ替わる世界に慣れ親しんできた。だからこそ、この巨大な木組みは「完成ではなく変化を前提とした都市像」を体現しているように見える。
ここで思い出したのは、「透明性」や「サステナビリティ」といったキーワードだ。木の梁がむき出しになった構造は、隠すことよりも“見せる”ことを重視している。裏側まで透けて見える都市は、私たちが求める社会の姿にも重なる。政治や経済が見えない場所で動くのではなく、すべてが共有され、誰もがアクセスできる世界。木組みの下を歩きながら、その理想を建築が物理的に表現しているように感じられた。


第2章 世界が集まる空間 ― 多様性を身体で感じる
木組みの大通りを抜けると、次に目の前に広がったのは「世界の縮図」だった。各国のパビリオンが立ち並び、建築の形も素材もまったく異なる。国境を飛び越えた価値観が、ここでは物理的なかたちとなって表現されている。
まず足を運んだのは、白く大きな曲線を描くカタール館だった。膜のような屋根は光を透かし、夕暮れ時の空と溶け合って不思議なグラデーションを描く。その姿は「砂漠のテント」と「未来の宇宙船」が融合したかのようで、外の喧騒から別世界へ誘うゲートのように感じられた。
中に入ると、圧倒的な柱群が待っていた。円筒形の柱の表面には植物の繊維のような素材が巻かれ、ひとつひとつが大地から生えた木の幹のように立ち並んでいる。天井まで届くそのスケールは、訪れた人々を小さな存在に変えてしまう。同時に、「人間は自然と共にあるべき存在だ」というメッセージを強烈に突きつけていた。
私はこの体験を通じて、「多様性とは単に国や文化の違いを並べることではなく、その異質さを身体で感じることなのだ」と思った。写真やSNSの投稿で見る「多様性」には限界がある。けれど、異なる建材や空間スケールを自分の体で感じると、その国の人々の歴史や価値観に一歩近づいた気がする。
Z世代はしばしば「多様性に敏感な世代」と呼ばれる。しかし、その多様性は画面越しの情報として摂取するだけでは足りない。万博のように、実際に異なる文化の物理的な表現に触れることで、初めて「共に未来をつくる感覚」が生まれるのだ。
そしてここでもまた、私は「未完成」という言葉を思い浮かべた。各国のパビリオンは、国家の誇りや未来像を示す完成品であるはずなのに、私の目には「対話を求める途中経過」として映った。完璧に整った回答ではなく、問いかけとして存在している。まるで「私たちと一緒に未来をつくってほしい」と呼びかけているようだった。

第3章 万博のシンボル体験 ― 公共空間と自己映り込み文化
世界のパビリオンを巡ったあと、ふと足元に目を落とすと、万博オリジナルのデザインが施されたマンホールがあった。青と赤のキャラクター「ミャクミャク」が描かれ、来場者の多くが立ち止まってスマホを向けている。普段は見過ごしてしまうはずの都市インフラが、ここでは「撮影スポット」に変わっていた。
この光景は、Z世代にとって非常に象徴的だと思った。私たちは「ただそこにあるもの」を新しい意味に変えることに慣れている。道路標識や落書きの壁を背景に写真を撮り、SNSでシェアすることで、それらを一瞬で文化的なシンボルへと変換してしまう。マンホールがアートになるのは、まさに「視点の編集」が未来をつくることを示していた。
さらに印象的だったのは、鏡面仕上げの建築に映り込む自分自身だった。光沢のある外壁に、空と建築と来場者の姿が混ざり合い、まるで「一時的なコラージュ作品」のように現れる。誰もが思わずスマホを掲げ、自分の姿と建築を一緒に収めようとする。
この「自己映り込み文化」は、万博という未来の祭典にふさわしい現象だ。なぜなら、未来はもはや「与えられるもの」ではなく、「自分がどう関わるか」で決まるからだ。SNS世代の私たちは、常に自分を映り込ませることで世界を再解釈してきた。建築や公共空間をただ眺めるのではなく、自分をそこに挿入し、物語の一部にしてしまう。この態度が未来を柔軟に描く力につながっている。
私はこの瞬間、「万博そのものが巨大なインスタレーション作品なのではないか」と感じた。来場者一人ひとりが写り込み、シェアし、編集することで、会場全体がリアルタイムで更新される。完成された展示を一方向的に見せられるのではなく、参加者の眼差しと投稿によって未来像が常に書き換えられていく。それは、まさにZ世代的な「未来の遊び方」だと思った。


第4章 各国パビリオンが示す未来像 ― 伝統と未来の翻訳
歩みを進めるごとに、私は「未来の断片」を各国のパビリオンに見ていた。たとえば、中国の書を大胆に掲げた展示空間。墨の濃淡で描かれる大きな筆致は、デジタル全盛の時代にあってもなお「手の痕跡」が未来に必要だと主張しているように感じられた。私たちZ世代は、日常の多くをデジタル上で過ごす。それでも時折、手書きやアナログの質感に強烈に惹かれるのは、こうした「身体性」が未来のバランスに欠かせないことを直感しているからだ。
さらに、サウジアラビア館に足を踏み入れると、その感覚はさらに強まった。巨大なスクリーンに映し出される砂漠の風景、そしてその上に重なる最新の建築群。伝統的な砂漠文化と最先端の都市開発が同居する様子は、「過去を断ち切るのではなく、重ね合わせて未来を描く」という強い意志を感じさせた。
各国のパビリオンを巡るうちに、私は「未来とは翻訳のプロセスだ」と気づいた。国や文化が持つ伝統をどう未来へと翻訳するか。その翻訳作業の多様さこそが、万博を歩く楽しさであり、Z世代が未来を考えるヒントになる。なぜなら私たち自身も、日々翻訳を繰り返しているからだ。SNSで異文化の表現を受け取り、それを自分の文脈に置き換えて発信する。その営みは、国家レベルのパビリオン展示と同じ構造を持っている。
未来は誰かが一方的に提示するものではない。むしろそれぞれの文化や個人が、自分の言葉や表現で翻訳し直すことで初めて共有できる。大阪・関西万博は、その壮大な翻訳作業の現場だった。




第5章 Z世代としての実感 ― 未来は展示ではなく実験
会場を一日歩き回って気づいたのは、「未来は展示されるものではない」ということだった。巨大なスクリーンや最新のテクノロジーは確かに圧倒的だ。けれどそれ以上に心に残ったのは、建築の素材、空間に差し込む光、人々が集まり生まれる小さな出来事だった。
Z世代にとって未来とは「完成品」ではなく「実験」だ。TikTokで新しい編集手法が流行すれば試してみる。AIが新しい生成方法を提供すれば遊んでみる。失敗しても、次の瞬間には別の可能性が開かれている。その繰り返しの中で、未来を「試しながらつくる」感覚が培われている。
だから万博で提示される未来像も、私たちは消費するだけでは終わらせない。写真を撮り、SNSにアップし、コメントで編集し直す。そのプロセス全体が「私たちの万博体験」であり、「未来を共につくる実験」そのものだと感じた。
万博の会場で私が出会った同世代の来場者も同じように語っていた。「完成されすぎている展示より、ちょっと不完全で、自分の想像を差し込める余白があるほうが面白い」と。まさにその感覚こそが、未来をつくる力なのだと思う。
結論 ― 万博と私たちの未来
大阪・関西万博を歩いて感じたのは、「未来は未完成の問いの連続である」ということだった。木組みの仮設都市は、柔軟で持続可能な未来の都市像を問いかけていた。そして、「いのち輝く未来社会のデザイン」とは歩く事だったのかもしれない。結果、2万4千歩も歩いた、、、
また、各国のパビリオンは、伝統をどう翻訳し直すかという問いを突きつけていた。ミャクミャクやマンホールは、身近なものをどう再解釈するかを促していた。鏡面の建築に映る自分の姿は、「未来に自分をどう挿入するか」という問いそのものだった。
これらすべてを通じて、私は未来を「鑑賞する」存在から「共につくる」存在へと押し出された。Z世代は、街や社会を遊び直し、編集し、シェアしながら未来を生み出していく世代だ。その感覚は万博の体験と強く重なり合っていた。
あなたの未来は、どんな問いから始まるだろうか。
大阪・関西万博は、その問いを受け止め、投げ返す場所だった。